Brahms: Ein deutsches Requiem & Mendelssohn: Motets
by Michel Corboz: Ensemble Vocal & Instrumental de Lausanne
ブラームスが1868年に作曲した『ドイツ・レクイエム』。
元来レクイエムは死者の安息を願い、ラテン語の典礼文で構成されるもの。
ところがブラームスはルター訳の聖書からドイツ語の章句を引用し、「苦しみを抱える人々を幸せだと讃える」、「悲しむ人々のための慰めの作品」(ブラームス談)として、生きている人間のためのレクエムを完成させた。
下記ページにこの曲の歌詞の素晴らしい対訳がある。
≪以下、一部抜粋≫
祝福されたるは、悲しみを負うひと、
彼らは慰められるのですから。
(マタイ福音書 5:4)
涙とともに種を播くひとは、
喜びとともに穫りいれるでしょう。
(詩篇 126:5/6)
だから今は耐え忍びなさい、愛しい兄弟よ、
主の来たるその時まで。
(ヤコブ書簡 5:7)
そのとき、あなた方の心は喜び、
その喜びは何ものにも奪われません。
(ヨハネ福音書 16:22)
経営することは、種を蒔き続けることでもあると思う。
蒔いた種が、それ以上の実りをもたらすとは限らないし、何も実らないまま耕す土地を失うこともある。
自らの糧も底をつき、他人には決してわかることのない恐れが度々訪れる中、常に種を蒔き続けなくてはならない。
実ったとしても、またそれは種として蒔かれなければならない。
現世的な見返りを求めていたのでは、とても務まる仕事ではない。
そしてイエスが5つのパンと2匹の魚で五千人の腹を満たしたように、いわば奇跡によって実りをもたらし、従業員や家族を養わなければならない。
状況や他人、そして自分の弱さにも決して揺るがされることなく、信じ続けなければならない。
未だ見ぬ実りを信じるのではない。
従業員や自分自身を信じるのでもない。
信じるべきものも、欲しいものも、この世界には無い。
ただ全てのことを、神様が天の実りに変えてくれることを信じ続ける。
今この瞬間も、天に実りが増し加えられ続けているであろうことを信じている。
そしていつか、ずっと願って止まない平安と喜びに満たされることを知っている。
『だから今は耐え忍びなさい』
この言葉に素直に従って、もう何も考えず、何も苦しまず、ただ耐え忍べばいい。
何かを変えようとしなくても、ただ耐えて待てばいい。
後はきっと、神様がやってくれるということだから。
主に救われた人々はふたたび戻り
シオンへと歓呼の声とともに来たらん;
永遠の喜びを頭上にいただき;
喜びと歓喜をつかみとり
そして苦悩と嘆息は消え去らん、必ずや。
(イザヤ書 35:10)
数多くの録音を聴いてきたわけではないが、やはりミシェル・コルボ(Michel Corboz: Ensemble Vocal & Instrumental de Lausanne / 1989年)の演奏が一番好きだ。
2011年の“La folle journée de Nantes”では、過去の録音と異なり、第2楽章の変ロ短調のパートが、重々しさを排除したかなり軽快なテンポで演奏されている。
Brahms – Un requiem allemand – Michel Corboz – Intégral
人生の儚さを歌うこの部分に、当時77歳を迎えたコルボが自らの最新の人生観を反映させたのかもしれない。
過ぎ去った人生を振り返ったところで、いつだってそれはうたた寝に見る軽い夢のようなもので、気付いたときには幻となって消えている。
きっとそれはこれからも変わらない。
何が起こるとしても。
コルボの奏でる音楽には、いつも温かい愛が天から美しく降り注いでいる。
本人が何かのインタビューで話していた通り、いつも祈るように、そして祈りとして、音楽を演奏していたからだと思う。
悲壮感が足りないとか、明る過ぎるなどと批判されることも多かったが、他の誰にも真似の出来ない、自分だけの至極の音を奏でられる、非常に稀少な指揮者だった。
最後期のMIRAREへの録音はどれも素晴らしいものばかりで、願わくばもう一枚、いや、もう何百枚でも聴きたかった。
今はきっと祝福に満ちた幸せな日々を、穏やかに過ごしておられることだろう。
少しでも彼にあやかれるように、これからもコルボの残した録音を一つずつ大切に聴いていきたい。