自分ほど世間一般の経営者というイメージから遠くかけ離れた人間もそういないと思う。
ネガティブなことは余り書きたくないものの、ぱっと思い付くだけでも、
・口下手で人と話すのが苦手でコミュ力と社交性ゼロ
・喋るのが面倒臭いし声も小さくて滑舌悪い上に暗い
・人前で話すことはもちろん注目されることも苦手であがり症
・人との会話に集中できずすぐ上の空になる
・そもそも頭の回転が遅いので話についていけない
・記憶力も無いので何も覚えていないし飽きっぽい
・団体行動は黙り込んだ挙句に意識が朦朧となるほど苦手
・体も貧弱でほぼ常に眠気と疲労感か頭痛に腹痛またはその全部
・臆病で心配性なためあらゆるリスクから逃げたい
・ビジネスや投資、世の中に興味も無ければ、野心も向上心も無い
・優柔不断で決断力、行動力、発想力はもちろん、ユーモアも無くて気が短い
・ずっと引きこもってダラダラしていたい
・ちょっと嫌なことがあるとすぐ持病の辞めたい病と死にたい病が発症する
と、経営が向いていない理由に関してはいくらでも書ける自信がある。
もとい経営どころか、生きるのに向いてない。
改めて見て思う。
他人のダメ人間自慢や変わり者自慢には耐えられないくせに、よくもお澄まし顔でこんなに流暢に自分のナルシスぶりを書き連ねたものだ。
そんな生物が長年この仕事をやらせてもらえているのが本当に不思議だ。
しかも性格がネガティブな割に、意外と現状を楽観視していたりもするから良くわからない。
積極的に利益を出すためのことは特に何もしていないので、経営も生活もギリギリではあるが、何なら一周回ってまあまあ経営に向いている方だとすら思い始めている。
とは言え、自分一人の力によるものだとは全く考えていないし、出来ないことや苦手なこと、やりたくないことに関しては、代替策でなるべく回避していたりもする。
まず上に書いた通り、会話というコミュニケーション手段は、少なくとも仕事の実務において、とことん自分と相性が悪い。
自分にとって会話をしながら口や思考をコントロールすることは至難の業で、思ってもいないことを言ってしまったり、言うべきはずのことを言わなかったり、逆に言わない方がいいことを言ってしまったりと、とにかく手に負えない。
なので大事なことほど、メールや掲示板で伝える。
伝える内容をそれなりに吟味できて、記録にも残るので、色んな失敗が減る。
ミーティングが必要な場合には、台本と資料を用意して、ジャンク品である自分の頭を極力リアルタイムで使わなくていいようにする。
逃げてばかりだとさすがにコミュニケーション不足に陥るので、なるべくプレッシャーの少ない1対1になれる状況で雑談するようにしたり、個別ミーティングの機会を作ったりと、自分なりに話すための最低限の努力もしている。
忘年会や懇親会的なものは苦手なので、費用だけ負担して極力参加しない。
あと圧に弱いので何でも即答はしないようにする、と思いつつも、不意を突かれるとすっかり忘れているので、雰囲気で適当に二つ返事をしてしまう。
そのためなるべく早く謝って撤回することも心がける羽目になっている。
心身共に覇気の無い人間なので、現場には2週間に1回足を運べれば自分を褒め称えている。
いつもまあまあ嵩張る量の薬とバッテリーを持ち歩いているのも、自分の特性を良く表している気がする。
従業員には非常に面倒臭がられるこの心配性という性格も、プラスに捉えて「慎重」と解釈したいところだが、リスクに四面楚歌されて悩み抜いた結果、途端にあまり現実的ではない大胆な選択をしてしまっていることも多い。
そしてそれが功を奏して一命を取り留めたりする。
良くも悪くも現実的でなくなってしまうのは、ビジネスとか経済の面白さを未だに理解できないからだと思う。
お金もあれば良きとは思うけれど、そのために頑張りたいと思えるほどのエネルギーはない。
そもそもお金が無いと生命活動が出来ないという時点で人生=罰ゲームな気がしてしまう。
いわゆる「成功」という面白ワードも、ますます滑稽に思えてくる。
現世的に、そして論理的に考えたら、生きるという一生分の労働に見合う人生など無い。(※個人の感想です。)
目を凝らしてみたところで、世の中にも興味が無ければ、どうやら自分の内側にも色んな能力が無い。
やることも無く特に生きる意味も無いので、波の具合によってすぐ面倒臭くなって死にたくなる。
とは言え仕事を始めてしまった以上、どうやら責任がある。
こんな自分に付き合ってくれている従業員には幸せになってもらいたいし、少なくとも仕事が不幸の原因ではあって欲しくないとも思う。
おまけに養うべき家族までいてしまっている。
たまにぼんやりと自分がいなくなった後のことを考える。
周りの人は大分面倒臭そうだし迷惑そうだ。
自分も面倒臭いのと迷惑かけられるのが一番面倒臭い。
なので死んでしまってはその申し訳なさがまた面倒臭い。
そこで面倒臭がりの死にたがりが発明したのは、「自分で死んだ場合、即生まれ直してもう一度死んだところまで全く同じ人生を歩まなくてはならない。」という時空を超えた輪廻の罰ゲーム。
自分にとっては割と理にかなった仕組みなので、不思議と本気でこれを信じ込んでいる。
もう一度ここまで人生をリピートするのは、面倒臭がりには大分きつい。
まあまあ人に恨まれて仕方のないことを繰り返してきたし、何せこれまでの人生のほとんどがしんどくて面倒臭い。
なので二度とは本当に遠慮したい。
そうしてギリギリでまた踏みとどまる。
そんな人間なので当然仕事も最小限がいい。
なのに根が真面目で恐がりなので、珍しく動いた時にはまあまあ真面目に仕事してしまう。
わざわざ苦労してお金を増やそうとは思えないけれど、減るのは面倒臭くなりそうだから割と恐い、ということなのだと思う。
とは言え、周りから置き去りにされて初めて、やっと少しテコ入れする程度のやる気と根性の無さ。
そんなペースでも、気付くと少しずつやらなきゃいけないことや、守らなきゃいけない人が増えている。
人間は苦手だけど、自分の周りに登場する人物のことは、きっと何だかんだで好きでいたいのだと思う。
気付くと昔の自分からはとても考えられないような自分に出くわすことが増えてきた。
不思議と、導かれていることを信じている自分がいる。
「変わったね。」と言われることを何度も繰り返してきたけれど、今度は他人には見えない部分が大きく変わり出した。
別人になることを繰り返してきたなら、大抵また別人になるのだろう。
Fauré: Messe de Requiem, Op.48 (version 1893)
by Michel Corboz: Ensemble Vocal de Lausanne & Sinfonia Varsovia
与えてください、彼らに、安息を、
そして絶えることのない光が、輝きますように、彼らに。
私を解き放ってください、主よ、永遠の死から。
私を解き放ってください、主よ。
“Pie Jesu”が只管に美しいレクイエム。
通常のレクイエムに含まれる「怒りの日」を省くことで、死をネガティブに表現することを避けている。
長年この曲を十八番としてきたコルボの演奏も、フォーレに寄り添い、温かく、美しい。
フォーレにとって死とは、苦しみではなく「永遠の至福の喜びに満ちた開放」であり、このレクイエムに「永遠的安らぎに対する信頼感」を込めた。
また、歌詞においても「死せる信者の魂」を「死せる者の魂」に変更して、救われるべき対象を限定しないよう注意を払っている。
神にとって、恐れを助長する宗教的儀式や、人間の作った様々な宗教的境界は、無意味である。
宗教も、恐れも、時間も、神にとっては存在しない。
無は無なので神は当たり前にそれらを通過してやって来る。
外側からも。内側からも。
元々は一つなのだから。
解き放たれて、再び一つに戻れることを、切に願う。
そして今はここで、与えられた使命と一つになれるように祈る。
世界も、自分も。